Velvet Gold 〜天鵞絨黄金〜　　（『楽園の灰』シリーズ）

出発

ｂａｃｋ
　華やかな宴は始まったばかりだったが、金位の旅団は早くも出立の支度を終え、暇乞いに宮殿を訪れた。
　ディハーナは聖楽師[アンヘル]の金位を奥庭に誘い、花咲く四阿[あずまや]へと案内した。
　白い裾長に身を包んだ少年は、月影に薄く揺らぐ人形のようで、とてもあの力在る聲の持ち主とは思えなかった。
　王は深い緑のカフタンに黄金の帯を巻いて片側に長くたらし、金糸で縫い取られた花嫁のような日除け布を肩に羽織っていた。

「尊い方[マフディー]……俺のところに留まらないか？」

　少年は王の言葉が理解できず、にっこりと笑って首を傾げた。

「歌聖楽都[カンターリア]に帰るのはやめて、この國に残ったらどうだ。欲しいものならなんでも俺が用意してやる。楽房でも、祭殿でも、聖都に負けないものを造営してやろう。気に入りの楽師がいるなら聖都からさらって来る。……それに俺の國でなら、聖都よりずっと自由でいられるぞ」

　少年は今度こそ本当にクスクスと笑った。

「聖楽師の金位を緑園郷市[グリアナン]の主座にと？　凄いことを考える王だ」
「楽房の主座になどとは言っていない。あなた自身がここに残る、それだけだ」
「聖楽師[アンヘル]は死ぬまで聖都のものです……彼らが金位を手放すわけがない」
「ではもし、聖都が手放したら？　そうしたら、俺のもとに来るか？」

　戻り異端にでもなって追放されたら、というに等しい言い草だったが、金位は聞き咎めることなく、さらりと微笑んで応えた。

「その時になってから考えましょう」

　王は本当にがっかりした様子で顔をしかめた。

「やっぱりダメか……。では、来年も来い」
「お招き下さるなら、いつなりと」
「約束だぞ」

　少年は楽しげに頷いた。

「それでは、また来年、お会いしましょう……」

　そう言って少年は王に背を向け、四阿を去っていこうとした。
　すると急に王は少年の手を掴み、手首に巻いた銀の連鈴を抜き取った。

「これは来年まで預かっておくぞ。自分で取りに来い」

　言いながらディハーナは、四阿の柱に絡みつく蔓薔薇の枝先高く、少年の連鈴を引っ掛けた。

「では来年参りましたら、王にお願いして取っていただくとしましょう」
「自分で取れと言った」
「背が届きませんよ」

　ディハーナは小柄な少年を見下ろしたが、ふんと鼻先で笑って言った。

「来年には背も伸びてるさ」
「……かもしれません」

　少年はもう一度王に頭を下げ、静かに奥庭を出ていった。
　ディハーナは小さな溜息をついてその後ろ姿を見送っていたが、枝先の連鈴を一度だけ見上げると、次の瞬間には尊大な王の顔に戻り、大股で広間への回廊を歩きだした。

　明るく照らされた回廊の一隅に、宰相の娘シャーミラがいた。
　王はやがて后となるこの女性に歩み寄った。

「楽房を改築するぞ」
「……え？」
「もう少し金をかけなきゃ、次の主座が寄り付かんだろう。今の主座はもう歳だからな。主座楽房はそれ自体が街の財産。楽房が立派になれば巡礼も増える。緑園郷[グリアーナ]は聖都を軽んじていないと見せねばならんしな」
「……正しい選択だと思います」

　シャーミラは言外に、諸侯重臣らを説得して金を出させることが出来るなら、という条件を含ませた。
　ディハーナは彼女の意を察し、口許に不遜な笑みを浮かべた。

「北が欲しがる香油や薬草を増産する。開墾も続ける。隊商に掛ける税を下げ、市場[スーク]の通行税も廃止すれば、交易が盛んになるだろう」

　税を下げ交易を振興するというディハーナの案は、統治者なら誰もが一度は考え、しかし周囲の反対や財政の苦しさからなかなか実現できないことだ。
　それを実現しているのは、交易港であり商人が実権を握る海旋郷市周辺だけだろう。

　だが……とシャーミラは思い巡らしてみた。
　堅実な財政基盤を確保した今の緑園郷市なら、そして新王に熱狂する民の支持をもってすれば、あるいは実現できるかも知れない。

　シャーミラは王の横顔を見上げた。
　前だけを見つめる若い男の瞳と、人を魅きつけずにおかない傲岸な笑みと、酷薄で美しい顎を持った王の横顔だった。

「職人たちの作るあらゆる美しいものがここに集まってくるだろう。繁栄は芸術を呼ぶ。楽房に属さない市井の楽師たちも、もっと自由に活動できるようにしよう。舞人や絵描きや芝居小屋もだ。数年の内には、花咲く緑の楽園に誰もが憧れるようになる。歌聖楽都[カンターリア]も星辰人都[アスティリア]も無視できないほどの繁栄で、南に輝く美しい都を築き上げるんだ」

　未来を語る王の言葉に、シャーミラは驚きとともに微かな戸惑いを感じた。

　目の前にいるこの人は、なぜ王なんてものが必要なのか……と問い掛けた、あの同じ男なのだろうか……？

「それが……あなたの、民への愛なのですか……？」

　ディハーナは彼女に目を向けたが、表情は変わらぬままだった。

「王は國を富ませることしかできない。富を役立てることしかできない。指の隙間からこぼれ落ちていく一人一人の悲惨をすべて掬い上げることなど、人の身にはどだい不可能だ。……慈悲深く民に思いやりを見せ、道々で優しげに声をかけてやるのが王の務めなら、俺は王などいらない。慈しみと親密さは王の属性ではない。それは后になるあんたに任せる」

　そこでディハーナは言葉を途切らせ、僅かに素の顔を思わせる悪戯な笑みを浮かべた。

「もしも……もしも王なんてものが必要だとしたら、それは人と大地が、自らの偉大さを示すためだ。あれが我らの王だと、地上のどこにいても誇れるような……そんな王をこそ、俺は求めるだろうな。……そして多分、もう一つ。國が過ちを犯したときに、一人で堕ちていくため――王の首を伐れば、民はやり直せるからな」

　この人は変わった……いや、少しも変わっていないのか……？
　シャーミラは彼の横顔から視線をそらすこともできないまま、思った。
　……いずれにせよ彼は王になった、なってしまったのだ。

　宴の広間へと歩きだしたディハーナの背中に、シャーミラは素っ気ない口調で声をかけた。

「首を伐られるときには、ご一緒しますわ」

　王の背中が、小さく笑った。
（了）

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